[法蔵菩薩の志と誓願]
ひとりの国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ないさとりを求める心を起こし、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。才能にあふれ志は堅く、世の人に超えすぐれていた。法蔵菩薩は世自在王仏の徳をほめたたえた。
「願わくは、わたしも仏となり、この世自在王仏のように、迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。布施と調意と持戒と忍辱と精進、このような禅定と智慧を修めて、この上なくすぐれたものとしよう。私は誓う、仏になるときは、必ずこの願を果たし遂げ、生死の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう」
「私が仏になるときは、国土をもっとも尊いものにしよう。住む人々は徳が高く、さとりの場も超え優れて、涅槃の世界そのもののように、並ぶものなくすぐれた国としよう。わたしは哀れみの心をもって、すべての人々を救いたい。さまざまな国からわたしの国に生まれたいと思う者は、みなよろこびに満ちた清らかな心となり、私の国に生まれたなら、みな快くやすらかにさせよう」
「願わくは、師の仏よ、この志を認めたまえ。それこそ私にとってまことの証しである。私はこのように願をたて、必ず果たし遂げないではおかない。たとえどんな苦難に身を沈めても、さとりを求めて堪え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。」
[四十八の誓願]
そして法蔵菩薩は四十八の誓願、その四十八の誓願が成就するまでは自分は決してさとりを開いたことにはならない(自分は如来=仏とならない)、という誓願を立てる。
その第十八番目の誓願が、「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。」
いわゆる念仏往生の誓願である。
[菩薩行]
法蔵菩薩は、願をたておわって、国土をうるわしくととのえることにひたすら励んだ。はかり知ることのできない長い年月をかけて、限り無い修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。
貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも堪え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。そしていつも三昧に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益をあたえ、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである。
自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになり、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。
[無量寿仏と極楽浄土]
はかりしれないほど長い間修行と功徳を積み重ねた末、法蔵菩薩は、四十八の誓願をすべて成就し、仏となった。これがすなわち、無量寿仏(=阿弥陀如来)であり、無量寿仏の国が、極楽浄土である。
大無量寿経は、浄土宗・浄土真宗・時宗などの根本経典で、要するに日本人の過半が帰属する宗派の根本経典であるが、ほとんど信徒も読むことがない。内容は充実した感動的なものであり、大乗仏教の時代が下るほどに浄土経典が普及していった理由がわかるが、そのエッセンスを、装飾を排して抽出してみた。