*法然は他宗からの法難に遭って無実の罪を受け、75才にして京から土佐へ流罪となった。当時のこと、もはや二度と上人に会えぬと嘆き悲しむ弟子たちをなぐさめながら、法然は、「私はずっと都で布教していたが、このたびずっと以前からの念願であった辺境で人々を導くことができることになった、これぞ朝恩だ」と言って、嘆くこともなくむしろ従容として流罪に服した。土佐への道中、播磨の国の室の泊で、遊女に救いの道を問われた時に法然が述べたのが、以下のことばである。
同国室の泊(おなじくにむろのとまり)につき給に、小船一艘ちかづきたる、これ遊女がふねなりけり。遊女申さく、「上人の御船のよしうけたまわりて推参し侍なり。世をわたる道まちまちなり。いかなるつみありてか、かかる身となり侍らむ。この罪業おもき身、いかにしてかのちの世たすかり候べき」と申しければ、
上人あわれみての給はく、「げにもさようにて世をわたり給らん、罪障まことにかろからざれば、酬報またはかりがたし。もしかからずして世をわたり給ぬべきはかりごとあらば、すみやかにそのわざをすて給べし。もし余のはかりごともなく、また身命をかへりみざるほどの道心いまだおこりたまわずば、ただそのままにて、もはら念仏すべし。弥陀如来はさやうなる罪人のためにこそ、弘誓をもたてたまへる事にて侍れ。ただ、ふかく本願をたのみて、あへて卑下する事なかれ。本願をたのみて念仏せば、往生うたがいあるまじき」よしねんごろにをしへ給ければ、遊女随喜の涙をながしけり。
弁護士をしていて、苦境にあえぐ人、悲惨な境遇の人に、数限りなく接してきた。そんな人々に、なんとか救いの道を見いだしてあげたいと臓腑をよじる思いで必死になって取り組む。智恵の限りをひねり出せば、満足の程度はあれどなんらかの結論に到り、地獄から助け出せる。しかしそれでもどうにも救えないというケースもある。法然の時代は社会が激動する末世・戦乱の世であった。法然も同じ思いだったのだろうと思う。法然の言葉は、心にひびく。「百四拾五箇条問答」という書物が特にすばらしい。法然上人は、頭がずば抜けてよく、シンプルに、適切に、人の生きるべき道のアドバイスができる人であった。