二宮家は、金次郎の父利右衛門の代に家産を傾け、田畑の大半を失った。
貧窮の極みの末、金次郎14歳の時、父が病死した。あとには母と金次郎と幼い2人の弟が残された。
金次郎の母は困窮した末一度は末の弟(赤子)を親戚に里子に出した。
が、その母が夜に泣いている。
それをみた金次郎が聞くと、乳が張って痛くて泣いているのだという。
金次郎は母に、自分が人一倍働くからと言って説得し、深夜に母を連れて親戚の家に行き、下の弟を連れて帰った。
16歳の時、その母も病死する。
すべての家財がつきはてた空っぽの家に、金次郎ら兄弟3人が残された。
末の弟は3才。
幼い2人は親戚に引き取られ、金次郎は家に残り、わずかに残った田畑を親戚に協力してもらって耕し養育費を捻出することとなった。
ところがその年の田植えが終わった直後、酒匂川が大氾濫を起こす。
二宮家の田畑は一瞬で砂野、石河原と化した。
一帯が洪水にやられ、二宮家の田畑を復旧する余裕はもはや周囲の親戚にもなかった。
田畑は耕作放棄され、金次郎は伯父万兵衛のもとに引き取られた。
兄弟の居場所を確保しないといけない金次郎は、万兵衛の家で人一倍働く。
そして夜には寝る間も惜しんで勉学に励んだ。
が、万兵衛から、「家もなく畑もなく人に助けられて命をつないでいる身で、勉強に一晩中油を使うとは恩知らずな、勉学などやめてしまえ」と、どなられる。
金次郎は、「父母を失い、年少の身では独立することもできず、他人の家に養われて日をおくるといっても、文字をならい、学問に心がけなかったら一生文盲の人となって、父祖伝来の家を再興することも難しい」と、自分の力で油代を稼ぐことを考えた。
川沿いの荒れ地に菜種を植えて収穫し、灯油を買った。
しかし、それを見た万兵衛には、勉強は無駄だ、夜に勉強するというなら夜も家事を手伝えとどなられる。
金次郎は夜も万兵衛のため縄をない筵を織った。夜更けになって家人が寝静まってから灯りを衣類で隠し、勉学をした。
その後、万兵衛の家業の合間に耕作放棄された自家の田畑を独力で復旧していったのをはじめに、耕作方法を工夫し、節倹に励み、やがて万次郎の許しを得て独立し、家の再興のためもとの我が家に帰った。
帰ったと行っても長く放棄されて荒れ果てたあばら屋であったが、金次郎は独りこれを修理し、さらにわずかばかりの田畑で耕作に励んで工夫を重ね収穫を上げ、やがて父祖の田畑を買い戻し、さらに余剰を残し、ついには地主となるまでに至った。
働きづめで家をようやく再興した金次郎が結婚したのは、31歳になった時であった。
「報徳記」で語られる、二宮尊徳の少年時代の生立ちと苦難、勉学・勤労・節倹に励んで家産を回復させるまでに到った前半生を、要約した。
私の祖父は、滋賀県の農村で長男に生まれ、10歳、12歳で母、父を亡くした。
曾祖父は農家の次男で、所有する家も農地もなかったので、祖父は村の母方の伯父の家に幼児・嬰児だった弟と妹を預かってもらい、京都に宮大工に丁稚奉公に出て、仕送りをした。
祖父は若くして肋膜炎で無理が利かなくなった。
祖父の長男である父は、在学中から働きずめで、夜間高校・夜間大学と首席で卒業し、卒業と同時に一級建築士を取得した。
その後、体を無理して働き続けて、私が14歳の時に早世した。
かろうじて命が繋がる、そんな話が、つい一昔前まで、日本のそこら中にあったということである。
祖父は、自分は尋常小学校4年までしか学校には行っていない、そんな自分でもここまで商売を拡げてやってきた、と生前いつも私に語っていた。
父は、「自分は早死にするし、次男以下には財産は残せないが、学だけはつけてやるから、いい学校に行って、あとは自分で生きていけ」と、小学生の私によく言っていた。
父も祖父もとうに他界した今でも、田舎の墓に参るたびに、祖父の弟妹をみてくれた遠縁の家の墓に必ず手を合わせるのが、我が家の習いである。