「キリスト教綱要」は、ジャン・カルヴァン(1509年~1564年)により、1536年に初版が出版された。
カルヴァン27歳のときの大部の著作である。
カルヴァンは生涯を掛けてこの「キリスト教綱要」の増補改訂を繰り返した。
ツヴィングリやルターから始まった宗教改革のプロテスタンティズムのうねりは、カルヴァンの「キリスト教綱要」の出版によって理論的に確立された感があって、「キリスト教綱要」は出版されるや、当時の大ベストセラーとなった。
ルター派が政治的に多数を占めたドイツ以外のプロテスタント教会は、殆どが、カルヴァンを理論的支柱として拡大・展開していった。
「綱要」は、英語訳でInstitutes (原語のラテン語でInstitutio) なので、むしろ「キリスト教の教程」「キリスト教の教本」と訳した方が正確な語感となる。
実際に通読してみればわかるが、キリスト教綱要の論旨は、キリスト教の教科書、原始キリスト教がプロテスタンティズムに到るまでの教理の教科書と言ってよい。
新約聖書とキリスト教の成立、キリスト教の教理の創設者・確立者とも言うべきパウロの神学体系、そして教父たちが教理を突き詰めて純化させた三位一体説と使徒信条、と進んだ上で、論理的帰結として、予定説を展開するのである。
予定説は、カトリック教会の神父の行為(例えばサクラメント=秘跡のうち聖書に記載された洗礼と聖餐以外のもの。免罪符等)によって人が救われることを徹底的に否定し(公同の教会は認める)、あくまで信仰による義認によって人が救われるというパウロ神学を突き詰め、神の絶対性に照らして、誰かが救済されるかを人(神父も含む)が判断することはできない、という論理に帰結させる。
この論理的帰結が、聖書に立ち返るべきであって、カトリック教会の伝統と権威の多くが歪んだものとして批判されるべきである、というプロテスタンティズムの教理に到るのである。
キリスト教綱要は、
(1)神の造物主としての絶対性
(2)十戒(律法)の解説と人にその遵守が不可能なこと
(3)神の契約が旧約から新約への切り替えられたこと
(4)使徒信条
(5)神の絶対性に照らし、人の行為(善行)によって神に救済されるという論理関係にはないこと
(6)神に選ばれた者は人が知ることはできないこと。但し救われる者は「しるし」で判別できること
という順に論を進めていく。
これは、キリスト教の教理に通じる者からみれば、パウロの各種の手紙で語られた内容がキリスト教の教理を形成し、その教理を分析して導きだしたものに他ならない。
パウロは、旧約聖書の神の絶対性に徹底した確信を持ちながら、キリストの十字架上の死と贖いによる新しい約束と、信仰義認より、人が救われることを、教理として確信し、確立した。
カルヴァンは何も新たに独自の教理を立てたわけではない。
パウロの教理に立ち返って、信仰義認によって人が救われるのであり、腐敗したカトリック教会のわざによって人が救われるのではない、神のわざによって人は救われるが、人の善行に動かされて神がその人を救うことを決めてくれるわけではなくて(それは人が神に働きかけて神の意志を左右することであって神に対する傲慢である)、救われる(神に選ばれた者)者は救われる者らしい心と態度がしるしとなって現れるという関係にあるのだ、と説くのである。
これは、現代人からすれば、同じ現象について原因と結果を逆転させた言葉遊びのように思われるかもしれないが、神の絶対性をより徹底させることによってそういう理解と説明になるというのが正しい。
カルヴァンは、旧約聖書、新約聖書、特にパウロの書簡を多数引用しながら、これらの論旨を展開する。
「キリスト教の教科書」といってもよいゆえんである。
旧約聖書、新約聖書の膨大な引用を踏まえて、基礎からキリスト教の教理をわかりやすく展開した書物は、当時存在しなかったと思われる。
実際、キリスト教綱要は、たちまち英語、フランス語その他の各国語に翻訳されて各国で広く読まれた。
カルヴァンが滞在したジュネーブには大学が新設され、そこでキリスト教神学を学んだ者が、英国長老派はじめ、各国でプロテスタント運動を推進した。
「カルヴィニズム」というと、先鋭化したプロテスタンティズムの過激なイメージを象徴するように使われることが多い。
キリスト教の諸派においてすら、反発も否定的評価も多い。
しかし、カルヴァンの伝記「人と思想 カルヴァン」(渡辺信夫著 清水書院)をみてみれば、カルヴァンが実は、聖書研究をする生活をライフワークとして望み、宗教改革に伴う世俗の軋轢と喧騒に嫌気がさしては、一度ならず、静かな研究生活に戻ろうとしていたことがわかる。
しかしそのたび、周囲の宗教改革運動者から「これがあなたの神から与えられた使命だ」と説得されては、宗教改革運動の指導的立場に引き戻されるのである。
カルヴァンは、「キリスト教の教本」の改訂に人生の心血を注ぎ、内省的で、敬虔で謙虚な人柄であったことがわかる。
それは、「キリスト教綱要」の文章からも伝わるのであるが、以下、実際のカルヴァンの文章を抜粋していきたい。
なおページ数を打っているのは、「キリスト教綱要 初版」(深井智朗訳 講談社学術文庫)の該当ページである。各箇所の見出しは、私が内容に基づいてつけさせていただいた。
なお、結婚は、宗教改革でも特に目に見える争点だった。
カルヴァンは、結婚もサクラメントであるとするカトリック教会の伝統を真っ向から否定し、批判した。
のちにカルヴァンはキリスト教綱要の改定版において、「教会における権能」と「世俗権力の権限」を明確に区別し、結婚は人間生活の秩序のうちに属し、国家における良き秩序を保つために設けられたもので、民法の事柄に属するものであり、宗教的意義は否定しないが教会の霊的職分に属するものではない、として、その成立と解消の法的判断は、教会裁判所ではなく国家の裁判所によるべきと主張した。
これは、カトリック国とプロテスタント国での離婚手続の難しさの違いとして現代でも残っている。
(造物主たる神の絶対性)
私たちは、本来、神の被造物なのだから、神に栄光を期し、神を誉め讃え、神に仕えなければならない。
49P
(旧約聖書から新約聖書へ。神との旧い契約から新しい契約へ。ユダヤ教からキリスト教へ)
自分自身で律法を完全に守ったと自信を持って言える者などおらず、完全に律法を行い得た者もこれまで誰もいない。
(神との)約束の完成は、これが必ず成就すると固く確信している者、つまりそのような信仰をもつ者にしか与えられない。
だから、確信や信仰がなくなれれば、約束も力を失うことになる。
そのため、何らかの救いの望みが明らかになるには、その救いが私たちに保証されているという新しい約束が必要となる。
これが福音の約束である。
(信仰による義認。キリストの死と購いによって人は義とされること)
私たちはキリストの義によって義とみなされ、律法を遵守する者とされる。
私たちは、それによってキリストの義をあたかも自分たちのもののようにまとい、確かにこの義を私たちのものとして神に受け入れていただき、聖なる純粋な者として認められる。
このようにしてパウロの述べたことは、その通りに成就する。
すなわち、キリストは、私たちのために、義として、聖として、贖いとして与えられた。
憐れみ深い主は、善き意思、すなわち代価を求めない意思によって、私たちに寛容であり、私たちに恵みを与え、神の怒りゆえに永遠の死がふさわしい私たちの罪を赦し、債務を帳消しにしてくださった。
88p~90p
(いわゆる予定説とされる箇所)
私たちの人生の聖さが天国への道を生み出すわけではないが、神が聖なる者とされた者だけが栄光に入ることが神の善き意思であるのだから、神に選ばれた者は、この道を通って神の栄光へと導かれる。
そのために、戒めを守ることが主の義と呼ばれることがあるが、その意味は、主は戒めを守る者を義とするということ、あるいは人々を義人とし、認めるということではなく、主は自らの恩寵によって義とされた神の民を戒めによって訓練するということである。
聖書はただ神の善き意思だけを賛美しているのだから、私たちがもし私たちの救いの理由を少しでも私たちのわざに求めるなら、それは聖書全体を破壊することになる。
また、神の恩寵と、わざによる(人の)功績が釣り合うなどということはないので、功績という言葉をみだりに用いる者は、神の恩寵を冒涜している。
それは神への傲慢で不遜な考えに基づく主張である。
105p
(三位一体説)
パウロは、信仰は一つであるから神は一人だと証明した。
信仰が多くあると神も多くなる。
誰でも、ただひとりの神にでなければ、信仰を告白することなどできない。
聖書は私たちに、父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けよと命じているだけでなく、全ての人間は父と子と聖霊への一つの信仰によって進ぜよと命じている。
聖書は、そのことを通して、父と子と聖霊が一つの神であることをはっきりと証明している。
父と子と聖霊は、一つの信仰によって礼拝されるのだから、ひとつの神である。
114p
(予定説~神に選ばれた者を人は知り得ないこと、しかし見做すことはできること)
パウロが言うとおり、誰が神の子であるかを認識するのは、神のみが持つ特権である。
私たちは、自分が選ばれた者かどうかを信仰の確かさによって見分けることはできない。
しかし、私たちとともに同じ信仰を告白し、それに基づく生活を実践し、同じサクラメントに与り、神とキリストを告白する者は、誰でも愛の定めによって選ばれた者として、教会という共同体の構成員とみなされる。
この者たちは、もし道徳的な欠落があると自覚していても(もちろん、誰一人、道徳的に完全だとみなされるような者などいないのだから)、この欠落に安住しようとしたり、道徳的欠落に自ら進んで身を委ねたりしていないなら、選ばれた者とみなされる。
そして、その者たちは、神の導きによって常によい道へと導かれ、最終的にはすべての道徳的不完全さを取り除かれ、選ばれた者として永遠の祝福に到ると期待してよい。聖書は、私たちが識別できるように、これらのしるしや指標によって、神に選ばれた者、神の子、神の民、教会とは何かを教えている。
149p~151p
(パウロの「第一コリントの信徒への手紙」第13章について)
私たちはこの世では、ただ信仰と希望によってのみ神を知る。
だからこそ、信仰と希望と愛、これら3つのものは永続する、というパウロの言葉の意味は、賜物がどれほど多様であろうと、すべてはこの3つにまとまる、ということだ。
それらのうち、主要なものは愛である。私たちは、まさに信仰、希望、愛は聖霊の賜物であること、これらはどれも神の憐れみなしには始まりもしないし、もちろん存続しえないことを知らなければならない。
私たちは信仰も希望も愛も私たち自身の中で探すのではなく神に求める、ということである。もし私たちが自らの中に少しでも希望や愛や信仰を感じることがあれば、そのときは感謝の祈りを捧げ、それが神からの賜物であることを確認すべきだ。
そして、心と口から出る言葉をもって、(特に心から、そして継続して)、神が私たちの中に希望や信仰や愛を保持してくださるように、日に日に私たちを善き方向に導いてくださるようにと祈るべきだ。
163p
(祈りが感謝をもってなされるべきこと)
パウロが証言しているとおり、すべてのことは感謝の祈りをもってなされる時だけ、私たちのためになり、聖なるものとなる。
ここで私が言う感謝の祈りは、自分に与えられ、自分の中にある賜物に神の慈しみ、そして憐れみを見出す心から注ぎ出される。
このような祈りを捧げる者たちは、自分に用いることが許されているさまざまなものが神のものであることを知る。
だからこそ、何をするにしても神を賛美する。
このような祈りを捧げる者たちは、これが神から自分たちに与えられたものだと確信している。
その確信なしには、与えたまう神に感謝することはできない。
このような祈りを捧げる時には、私たちは自由が何に向けられているのかを知っている。
神の賜物を、両親の不安なく、魂の悩みもなく、神が与えたまう用途に従って使う。
この信頼があればこそ、私たちの魂は、神の前で平安になり、神の慈しみを知る。
433p
(キリスト者の自由は何によって得られるか)
私たちは笑うことも、腹を満たすことも禁じられてはいない。
音楽を一緒に演奏して楽しむことも禁じられてはいない。
ぶどう酒を飲むことも、適切、適量であれば禁じられてはいない。
しかし、それを過度にもつとき、快楽に陥って、そこから抜け出せなくなる。
精神や魂が目の前の享楽に奪われ、酔いの中で繰り返し新たな刺激を求め続けるなら、神の賜物の正しい用い方とは言えず、善からかけ離れた行為と言われてしまう。
湧き出る欲望を退け、限度を知らない浪費や支出を避け、虚栄や不遜な考えを捨て、純粋な良心に基づいて、神の賜物を誠実に用いるべきだ。
精神が節度あるものに整えられるとき、全ての者は正しい規範を手に入れる。節度をわきまえない時には、ごく当たり前の楽しみだったものもいきすぎとなる。
人はパウロと共に、与えられた状態に満ち足りることを学ぶべきだ。
貧しいことも富むことも知り、どこに置かれても、何をするにも満足し、飢えることにも、欠乏にさえ耐えることを教えられるなら、これこそがキリスト者の自由の規範であることを知るべきだ。
435p~436p
(結婚について)
結婚は、神によって制定された、正しい、聖なる秩序である。農業も、建築も、靴づくりも、理髪も神による正しい秩序だが、サクラメントではない。
パウロは(結婚のことを)ギリシャ語で秘儀(mysterium)と言ったのに、(ラテン語訳では)サクラメントという訳語を好んで、これを選んだ。
しかし、なぜあの者たちは、この個所でだけ、これほどまでにサクラメントという言葉にこだわったのか。他の場所では見落としているではないか。
あの者たちは、結婚をサクラメントに仕立て上げると、今度は、結婚は霊的なものなので、この世の裁判官に任せるべきではないと主張し、婚姻に関する諸審査権を独占しようとした。
あの者たちは、それに基づいてさまざまな法を定め、勝手な専制政治を確立した。
しかし、そのある部分は明らかに神への冒涜であるし、別の部分は人間に対する不法行為である。
いくつかの例を挙げよう。未成年者が両親の命令なしに結婚しても、それは固く有効であり続ける。親族間の結婚では、七親等までの結婚は合法とは言えず、それに反して結婚した場合には解消しなければならない。・・・
413p~415p