2025.10.05

織田信長「下天は夢か」 津本陽

弁護士 西村 幸三

織田信長の足取りを追っていくと、永禄13年(元亀元年)のわずか一年の間に起きた、近畿の四方からの包囲網、同時多発の裏切りやだまし討ち、激しい攻撃と私闘のめまぐるしさは、壮絶の極みである。

信長が、兄弟や部下を次々に失って、領国全体が崩壊寸前の窮地に追い詰められていく様子には、はなはだ戦慄する。

弁護士の仕事も、常在戦場であり、限り無い悪意に四六時中取り囲まれているようなものである。

津本陽「下天は夢か」は特にこの年の事象がよくまとまっており、要約しておくことにした。

織田信長は、永禄13年までは、人に信を置き敵を許す人の良さのような姿勢が前に出ていた。

しかし、この年を機にその寛容さは次第に薄れ、反抗する旧勢力に対する激烈で残酷な反撃を躊躇しないようになっていく。

長年激しい戦場に身を置きながら精神のバランスを維持し続けるのは、大変難しいことである。

 

(永禄13年の幕開け)

永禄13年(4月より元亀元年。1570年)は、織田信長にとって、最大の屈辱と試練の年となった。

永禄11年9月に足利義昭を奉じて上洛を果たした信長は、破竹の勢いで畿内の諸勢力を帰服させていった。三好三人衆もほぼ駆逐してからは、畿内で信長に露骨に恭順しない勢力は、石山本願寺くらいとなり、遠方の大名との関係はおおむね良好、朝倉氏だけがあえて恭順を避ける態度を示した。東の武田信玄は不気味だが強固な同盟関係を結ぶ徳川家康が抑えとなっていた。北近江の浅井長政には妹お市が嫁ぎ夫婦仲もむつまじく、信長は家康と並ぶ同盟者として長政を義兄妹として厚く遇した。岐阜と京都を結ぶ信長政権の生命線である近江の支配は磐石だった。

 

(越前朝倉征伐と浅井氏の裏切り)

4月20日、信長は、徳川軍と連合し、突如越前朝倉氏の討伐に出発する。家康には降ってわいた一方的な手伝い戦である。浅井氏にとっても寝耳に水で、浅井氏は朝倉氏とも旧縁深く、朝倉を攻撃する際には浅井に連絡するという約束が織田浅井間にはあったが、信長は、もはや浅井氏は織田との同盟を尊重して朝倉を見限るものとたかをくくり、浅井氏に事前に通知もせずに電撃戦を敢行した。信長軍がたちまち越前の西半分に殺到・制圧し、朝倉氏本拠一乗谷の陥落も遠くないと思われた26日、浅井氏は突如朝倉側に旗幟を鮮明にし、信長軍の背後側面から奇襲をかけるのである。浅井が反信長に立った背景には、裏に信長の足を引っ張ろうとする叡山や本願寺からの指嗾があったと言われる。

北近江を強力に支配する長政に背後を攻撃されては、越前に出張っている数万の織田・徳川軍が全軍壊滅の憂き目をみる。あれほど信頼して重んじ、まさか裏切るまいと思った長政。日の出の勢いの信長を捨てて、因循で聞こえる朝倉氏につくなどという長政の行動が誰の目にも不合理であることは明らかだった。信長は怒りに我を忘れかけ、しかしそれ以前に、我が身と織田全軍に迫る絶体絶命の危機に思い至り、まさしく全身総毛立った。もはや撤退しかなかった。信長は、馬廻りだけを10騎ほど連れ、朽木路を駆け抜け京に遁走した。残りの織田軍はおろか、同盟する徳川家康までが越前に取り残され、決死の撤退戦をくぐり抜けてかろうじて京に生還したのである。信長上洛以来はじめてと言っていい、てひどい負け戦であった。

 

(姉川の戦い)

6月、怒りさめやらぬ信長は、徳川との連合軍で、近江姉川で、浅井・朝倉軍と激突する。姉川の戦いである。織田・徳川軍の勝利と言われる戦だが、実態は必ずしもそうでもない。織田軍は、後がないとばかりに決死の覚悟で突撃する浅井軍の正面の猛攻を支えきれず、十三段備えの十一段までが破られ、壊乱の危機に直面する。戦も半ば、徳川家康が榊原康政を別動隊として対峙する朝倉軍の側面から突撃させ、手伝い戦の朝倉軍が戦意無く撤退。ようやく浅井軍も敗走した。しかし織田軍には追撃の余力も残っていなかった。織田軍は辛勝するも、浅井の鬼気迫る精強さも証明され、浅井氏の本拠小谷城攻略はしばらく見送られることになる。

 

(摂津の三好3人衆と石山本願寺の蜂起)

7月から8月、三好三人衆が雑賀衆と同盟して摂津に展開。伊丹城を攻撃し、野田福島に布陣。9月、信長は三好三人衆に対抗して摂津で対陣する。その三好三人衆を攻撃する信長軍に、石山本願寺が突如攻撃を仕掛けた。織田軍は石山本願寺の総攻撃を決断。しかしながら、要害に立てこもる雑賀鉄砲衆と身命を惜しまぬ膨大な一向衆徒の反撃に遭い、織田軍は数日で数千の損害を出すほどの手ひどい敗北を喫する。この織田軍の大敗北が、以後10年におよび泥沼のごとく信長を悩ませた、名高い石山合戦の始まりである。予想以上の抵抗と損害に織田軍には全く攻め手がなく、戦線はたちまち膠着してしまう。

 

(朝倉・浅井が京・近江を攻略。一向一揆の蜂起)

9月18日、呼応するように、朝倉・浅井軍3万が、湖北に進駐。坂本宇佐山城を包囲する。守将は森可成。19日、京都にいた信長の弟九郎信治が救援に駆けつけ入城するがそのまま攻囲されてしまう。浅井・朝倉の猛攻の前に、可成、信治が頑強に抵抗するも同日立て続けに討死。残兵がかろうじて本丸だけを死守する。浅井・朝倉は、20日には大津・山科に殺到し放火略奪、23日には東山に進出する。24日に大坂から急遽舞い戻った織田軍と対峙するや、浅井・朝倉軍は正面衝突を避け、叡山に登って持久戦を挑んだ。時を同じくして、各地で本願寺が末寺に呼びかけた一向一揆が一斉に蜂起する。

尾張から畿内に広大な分国を有する信長の軍の動員力は、当時総兵力10万を数えた。だが叡山という高所に拠る3万の大軍を撃滅するには、計り知れない大軍を要する。一方で、石山本願寺への攻撃は続行中、京や分国支配に残した軍は各地で蜂起する一揆の鎮圧に奔走させられ分散する。本願寺の一揆勢への指嗾・支援は強固で、一揆勢は命を捨てて抵抗するので、鎮圧側の損害も多く、一向に収拾がつかない。

 

(京都・大津への三好三人衆・佐々木氏の侵入と掠略)

10月、織田軍の主力が叡山山麓と石山本願寺に釘付けにされるうちに、山城西部西岡で土一揆が勃発。さらに三好三人衆の勢力数千が阿波から河内に進出。浅井・朝倉は夜な夜な京に潜入して放火を繰り返す。南近江では佐々木承禎が蜂起。そんな10月2日、徳川家康が北近江に来援。なんとこの年3度目の手伝い戦で、領国を留守に、三河から近江まで来援にきているのである。後々まで信長・秀吉が家康に対し寄せた深い信頼の念は、この苦難の年に家康が信長に示した、友誼というも月並みな、同盟者に対する不惜身命の献身によるところ大であろう。北近江の抑えを家康に委ね、木下秀吉がようやく坂本に来援。しかしそれでも叡山に攻め登るにはあまりに兵力不足であった。

 

(浅井・朝倉が比叡山に立て籠もる)

信長は、叡山に立てこもってすきあらば京に殺到しようとする気配を見せる浅井・朝倉と兵力不足のまま対峙し、主力を動かすこともできず、その間に領国全体で旧勢力や一向一揆が蜂起する。有効に鎮圧できないとなると威権が弱まり、ますます反抗勢力の蜂起を招く。

わずか半年前には隙間無く制圧したかにみえた畿内の信長の支配は、坂道を転がり落ちるように弱体化し、まさに累卵、ほとんど崩壊の危機に瀕したのである。

さる永禄11年、信長は畿内に進出した際、叡山の近江の所領を没収し、叡山はこれを恨みとして朝廷にその返還をうったえていた。朝倉氏は叡山にとって大旦那であった。その結果が、この事態である。信長は焦りにかられ、叡山に、没収した所領を返還するからせめて中立に立って浅井・朝倉を山から出すように要請する。しかし叡山はこれを無視。信長は屈辱と、焦りの中で、叡山を囲んで手をこまねいた。

 

(伊勢長島一向一揆の蜂起と朝廷の仲介による和睦)

事態は急速に、止めどもなく悪化していく。10月22日、最悪の知らせが届く。尾張と国境を挟んだ伊勢長島で一向一揆が大規模に蜂起。尾張の小城、小名木城を大軍で囲んだのである。守将は信長の五弟信興。援軍を送るべき伊勢桑名城を守る滝川一益までが、城を一向衆徒に包囲され、出陣もままならない。信興は絶体絶命の危機に瀕した。わずか1月まえに弟信治を失った信長は、今また大事な弟を失おうとしていた。なんとしても援軍を送りたいが、長島の一向一揆もまた大軍。その精強さは石山で思い知らされた。今叡山包囲の手勢を大きく割いて尾張に送り、目の前の浅井朝倉を抑え切れなくなれば、京も近畿の領国も反対勢力が席捲し、信長の支配も全面崩壊する恐れが、もはや目の前の現実となりつつあった。信長は、己への歯がゆさと心痛に身もだえしながら、許せ信興と心で叫ぶ。天下布武を標榜し、天下統一と既得権益の破壊に向かって容赦なく進む信長に、割拠する旧勢力が己の既得権益を死守しようと足を引っ張りにかかる。再び支配者不在の混乱と破壊の中に畿内を追いやろうとしている。みごとなまでに機を一にした反抗勢力の蜂起だった。懸命に一刻も早い打開策を探るしかない。焦燥と煩悶の中で、誇り高い信長が選択した方法、それは、足利義昭に膝を屈し、反抗勢力との和睦の調停を禁裏に依頼することだった。もはや和睦しかなかった。それに今は義昭そして朝廷を利用するしかない。信長は、義昭や朝廷の政治的立場を強めることは避け、むしろ経済的支援により恩を着せ続けてきた。それゆえ今はなから守る気もない詐術的な和睦のために頭を屈するべきではない。しかし、浅井・朝倉を叡山から引きずりおろし、苦況を脱し、なにより信興や崩壊寸前の分国を救うためには、もはや信長にはそれ以外手だてはなかった。怒りと憎悪、焦燥と屈辱に煮えたぎりながら、忍従の姿勢を保ち、義昭に頭を屈したのである。信長が中央政権崩壊の瀬戸際に立たされて見せたものは、恐ろしいまでの自制心と、忍耐力であったのである。

11月12日、三好三人衆と和睦。13日、本願寺顕如と和睦。しかしその間の11月21日、長島の一向一揆に攻囲されていた尾張小名木城は陥落、信興は討死する。間にあわなかったのである。27日、湖西の堅田の浅井朝倉勢に坂井右近が海上から上陸し、突撃して全滅。28日、ようやく朝倉氏と和睦。12月12日、叡山と和睦。叡山には、所領の返還と、浅井朝倉への加勢を咎めないという誓紙を差し出した。叡山への無条件降伏である。

信長は、わずか2ヶ月であっという間に2人の弟を失い政権崩壊の寸前まで追い込まれた。その忍従の中で、信長の心中には、守旧勢力、つまりは、浅井・朝倉、そして叡山、石山本願寺に対する、底知れぬ憎悪が醸成された。そこには、信長の、鋭敏な自衛本能、深刻な恐怖と、ぬぐいがたい屈辱、そして、己の利益のためには民の利益など考えず命すら使い捨てに利用し天下人が出ればその足を引っ張って天下静謐のあえて逆を行かんとする旧勢力に対する、尋常ならざる強い嫌悪感があった。いかように思考しても、いや思考するほどに、確実に、抑えがたい憎悪の念が信長の心をさいなんでいったのである。

信長が一向一揆の衆徒に対する残虐な処刑をおこなうようになるのは、翌年の元亀2年ころからである。

信長は、浅井・朝倉が叡山を降りて本国に帰還し、危機を乗り切ったと見るや、浅井・朝倉との和解をたちまち反古にし、翌元亀2年正月から浅井領への交通を遮断、攻略を開始し、2月には佐和山城を調略によって奪取した。将軍義昭が仲介した勅命による講和を一瞬で破毀したことで、はなはだ威信を貶められた義昭は憤慨し、以後義昭と信長の関係は急速に悪化し、反対勢力を陰で煽動する側に回っていく。

そんなことも構わず、元亀2年9月12日、信長は、軍をあげて叡山を包囲して焼き討ちし、堂塔全てを破却し焼き尽くし、僧俗問わず殺戮する。叡山焼討である。