*法然は他宗からの法難に遭って無実の罪を受け、75才にして京から土佐へ流罪となった。当時のこと、もはや二度と上人に会えぬと嘆き悲しむ弟子たちをなぐさめながら、法然は、「私はずっと都で布教していたが、このたびずっと以前からの念願であった辺境で人々を導くことができることになった、これぞ朝恩だ」と言って、嘆くこともなくむしろ従容として流罪に服した。土佐への道中、播磨の国の室の泊で、遊女に救いの道を問われた時に法然が述べたのが、以下のことばである。 同国室の泊(おなじくにむろのとまり)につき給に、小船一艘ちかづきたる、これ遊女がふねなりけり。遊女申さく、「上人の御船のよしうけたまわりて推参し侍なり。世をわたる道まちまちなり。いかなるつみありてか、かかる身となり侍らむ。この罪業おもき身、いかにしてかのちの世たすかり候べき」と申しければ、 上人あわれみての給はく、「げにもさようにて世をわたり給らん、罪障まことにかろからざれば、酬報またはかりがたし。もしかからずして世をわたり給ぬべきはかりごとあらば、すみやかにそのわざをすて給べし。もし余のはかりごともなく、また身命をかへりみざるほどの道心いまだおこりたまわずば、ただそのままにて、もはら念仏すべし。弥陀如来はさやうなる罪人のためにこそ、弘誓をもたてたまへる事にて侍れ。ただ、ふかく本願をたのみて、あへて卑下する事なかれ。本願をたのみて念仏せば、往生うたがいあるまじき」よしねんごろにをしへ給ければ、遊女随喜の涙をながしけり。 ●釈迦 「古道について」 雑阿含経より(「仏教の根本聖典」増谷文雄) 比丘たちよ、過去の諸仏のたどった古道とは何であろうか。それは、かの八正道のことである。すなわち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。 比丘たちよ、これが過去の諸仏のたどった古道であって、この道にしたがい行いて、私は、老死を知り、老死の縁って来たる所を知り、老死の滅を知り、老死の滅にいたる道を知ったのである。 比丘たちよ、わたしはまた、この道にしたがい往いて、生を知り、有を知り、取を知り、愛を知り、受を知り、触を知り、六処を知り、名色を知り、識を知り、行を知り、それらの縁りて成るところを知り、それらの縁りて滅する所以を知り、その滅を実現せしむべき道を知ったのである。 ●シャーリプトラ 「無明について」 雑阿含経より(「仏教の根本聖典」増谷文雄) 「友よ、無明、無明と称せられるが、友よ、無明とは何であるか。」 「友よ、およそ苦についての無知、苦の生起についての無知、苦の滅尽についての無知、苦の滅尽にいたる道についての無知。友よ、これを称して無明というのである。」 「友よ、さらば、この無明を捨て去る道があるのであろうか。」 「友よ、かの聖なる八つの道こそは、この無明を捨棄する道である。それは即ち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。友よ、これが無明を捨棄する道である。」 ●水野弘元 「仏教の基礎知識」より 八正道 「正見」・・・正しい見解のことをいう。理想や目的に向かって進むためには正しい知識と周到な計画立案が必要であり、その知識や計画のこと。 「正思(正思惟)」・・・行動する上で正しい考え、思念を持つことをいう。 「正語」・・・正しい言葉を用いることをいう。 「正業」・・・正しい行動・立ち居振る舞いをいう。 「正命」・・・正しい生活(規則的で健全な生活)をし、正規な職業によって生活することをいう。 「正精進」・・・正しい努力であって、善に向かって精進努力を心掛けることをいう。 「正念」・・・正しく心身と事物を観察して真理に思いを巡らせ、注意して気を散らさず、必要なことを失念しないことをいう。 「正定」・・・正しく心を平静に保ち、精神を統一することをいう。禅定、三昧。 ●釈迦 「自燈明 法燈明」 雑阿含経より(「仏教の根本聖典」増谷文雄) アーナンダよ、比丘たるものは、身について身を観察し、熱心に懈怠無く、憶念して忘れず、ひたすらにこの世において貪欲と、憂悲とを排除せねばならぬ。また、感覚について、ないし心について、さらに法について、それらを熱心に観察し、懈怠無く、憶念して忘れず、ひたぶるにこの世界において貪欲と憂い悲しみとを排除しなければならぬ。かくてアーナンダよ、比丘たるものは、自らを燈明とし、自らを依所として、他人を依所とせず、法を燈明とし、法を依所として、他を依所とせずして住するのである。
● 「大無量寿経」(本願寺出版社「浄土三部経」より編集」)
[法蔵菩薩の志と誓願] ひとりの国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ないさとりを求める心を起こし、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。才能にあふれ志は堅く、世の人に超えすぐれていた。法蔵菩薩は世自在王仏の徳をほめたたえた。 「願わくは、わたしも仏となり、この世自在王仏のように、迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。布施と調意と持戒と忍辱と精進、このような禅定と智慧を修めて、この上なくすぐれたものとしよう。私は誓う、仏になるときは、必ずこの願を果たし遂げ、生死の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう」 「私が仏になるときは、国土をもっとも尊いものにしよう。住む人々は徳が高く、さとりの場も超え優れて、涅槃の世界そのもののように、並ぶものなくすぐれた国としよう。わたしは哀れみの心をもって、すべての人々を救いたい。さまざまな国からわたしの国に生まれたいと思う者は、みなよろこびに満ちた清らかな心となり、私の国に生まれたなら、みな快くやすらかにさせよう」 「願わくは、師の仏よ、この志を認めたまえ。それこそ私にとってまことの証しである。私はこのように願をたて、必ず果たし遂げないではおかない。たとえどんな苦難に身を沈めても、さとりを求めて堪え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。」 [四十八の誓願] そして法蔵菩薩は四十八の誓願、その四十八の誓願が成就するまでは自分は決してさとりを開いたことにはならない(自分は如来=仏とならない)、という誓願を立てる。 その第十八番目の誓願が、「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。」 いわゆる念仏往生の誓願である。 [菩薩行] 法蔵菩薩は、願をたておわって、国土をうるわしくととのえることにひたすら励んだ。はかり知ることのできない長い年月をかけて、限り無い修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。 貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも堪え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。そしていつも三昧に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益をあたえ、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである。 自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになり、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。 [無量寿仏と極楽浄土] はかりしれないほど長い間修行と功徳を積み重ねた末、法蔵菩薩は、四十八の誓願をすべて成就し、仏となった。これがすなわち、無量寿仏(=阿弥陀如来)であり、無量寿仏の国が、極楽浄土である。
●「スッタニパータ」より「こよなき幸せ」(中村元訳)より 1.愚者に親しまないで賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること 2.喧噪すぎず人里離れすぎない場所に住み、功徳を積み、みずからは正しい誓願を起こしていること 3.深い学識があり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、みごとなことばを語ること 4.父母につかえ、妻子を愛し護り、仕事において秩序を守り混乱しないこと 5.人に施しをあたえ、理法にかなった行いをまもり、親族を愛し護り、非難を受けるような行いをしないこと 6.悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと 7.尊敬の気持ち、謙遜する気持ち、足ることを知る気持ち、感謝の気持ちを持ち、時折教えを聞くこと 8.耐え忍び、やさしいことばを語り、いろいろな自分と異なった考え方の人に会い、適当な時に理法についての教えを聞くこと 9.修養し、清らかな行いをたもち、聖なる真理を観察し、安らぎの境地を体得すること 10.世俗の事柄に触れても心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること
●「スッタニパータ」より「慈しみ」(中村元訳)より 1.能力があり、実直で、ことばはやさしく、柔和で、思い上がることのないようにしなさい。 2.足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務を少なくし、生活もまた簡素であり、いろいろな感覚や器官がしずまり、聡明で、高ぶることなく、他人の家で貪ることがないようにしなさい。 3.他の識者の非難を受けるような下劣な行いを決してしないようにしなさい。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。 4.他人を欺いてはいけない。他人を軽んじてはいけない。他人を悩まそうとしたり怒りの想いをいだいたりして互いに苦痛を与えることを望んではいけない。 5.あたかも母がひとり子を命をかけて護るように、一切の生きとし生けるものに対し、全世界に対し、無量の慈しみのこころを起こすようにしなさい。
●パウロ 新約聖書「コリント人への第1の手紙」第13章(口語訳)より
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。 愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。 ・・・ このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この3つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
● 新約聖書「マタイによる福音書」第6章(口語訳)より
何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉にとりいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は、彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華を極めた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは、何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
●モーセ 「ユダヤ人の歴史」(ポール・ジョンソン)より
(モーセについて)預言者であり指導者、いざという時には果敢な行動力を発揮し、まるで電流のように強烈な存在感のある男。激しい怒りを抱くことができ、容赦ない決意を内に秘め、それでいて深い精神性を持ち、人里離れた場所で一人きりになって神と交流するのを好み、神秘的な幻と神の顕現と黙示を見る。しかし世を避ける隠者というわけではなく、強い精神力をもって現世と積極的に関わり、不正を何より憎み、理想世界を実現しようとして熱烈に活動する。神と人との仲介役を果たすだけでなく、過激な理想主義を具体性のある政治課題に変えて取り組み、気高い理念を日常生活の細々した問題の水準にまで降ろすことができる。そして何よりもモーセは立法者であり、裁判官であり、公的私的な活動のすべての側面を道徳的規律のもとにおくために強力な枠組みを用意した、いわば精神的全体主義者であった。 モーセの業績を記した聖書の各書、特に出エジプト記、神命記、民数記は、神の栄光と思想を人々の理性と感情の中へ注ぎ込む巨大なパイプとしてこの人物を描いている。しかし同時にわれわれは、モーセ自身がきわめて創造性に富む人物であったことを忘れてはならない。時に恐ろしくまた時に気高い経験を経て、彼はしだいに激烈な創造力を発揮しはじめる。はるか昔から幾世代にもわたり何ら疑いなく受け容れられてきた日常的観念を取り上げ、それをまったく新しいものに変換して、価値観をひっくり返す。その結果、世界はこれまでとまったく異なった場所となり、古い物の見方に後戻りすることはもはやできない。 しかしモーセがどんなに偉大で例外的人物であったとしても、決して超人ではなかったことに注意する必要がある。モーセはほとんど卑怯と映るほど、ためらいがちであいまいであった。判断を誤り、頑迷で、愚かで、苛立ちやすかった。しかも驚くことに自分の欠点を常に意識し悩んでいた。
●ナイチンゲール 長島伸一著「ナイチンゲール」より クリミア戦争での看護活動がイギリス本国で「クリミアの天使」「ランプを持つレディ」などと熱狂的に賞賛・報道されていた中でナイチンゲールが述べた言葉 「かねてから心を痛めてきたことですが、私のこの実験事業に寄せられたはなばなしい声望を聞くにおよび、私はいっそう心を痛めています。この仕事にたいする並はずれた喝采がわれわれの中によびおこした虚栄心と軽挙妄動とは、この仕事にぬぐいがたい汚点を残し、おそらくはイギリスではじまった事業のなかでもっとも将来性あるこの事業に害毒を流し込みました。困難と辛苦と苦闘と無名の中で、この仕事に着手したわれわれの当初の一行のほうが、ほかの誰にもましてよい仕事をしてきました。・・・少数者による静かな着手、地味な労苦、黙々と、そして徐々に向上しようとする努力、これこそが、ひとつの事業がしっかりと根を下ろし成長していくための地盤なのです」 ●吉田松陰 「講孟箚記」(近藤啓吾訳)より「浩然の気」 孟子は、浩然の気のことを、「至大至剛」、と表現した。すなわち、人の気(気力)が、天地を蓋(おお)うほどに大きく広く、いかなるものによってもうち砕くことができない剛(つよ)いありさまであることを、浩然の気というのである。 至大、すなわち、この気が天地を蓋う広さは果てし無いものであるが、平常においてわが身にこの気を養おうとしなければ、わずかに一人の人間に対しても忸怩としてたじろぎ、これを受け容れることができない。まして数十人、千万人に対しては尚更である。思うにこの気は、養って大きくすれば極まり無く大きくなる。ところが反対に小さくさせてしまうと、また極まり無く小さくなってしまう。浩然の気とは、この気をもっとも大きくした状態をいうのである。 至剛とは、孟子に「富貴もその心を堕落させることができず、貧賎もその心を変えさせることはできず、威武もおびえさせることができない」というありさまをいう。この気が凝縮した時、その心は火にも焼けず水にも流れず、忠臣義士がその節操を堅く守るや、頭を刎ねられても、腰は斬られても、高官・厚禄を与えても、その眼前に美女を並べても、最後までこれを換えない。金鉄は剛であっても、烈火でこれを鎔(と)かすことができる。玉石は堅いといっても、鉄のみで砕くことができる。ただこの浩然の気のみは、これと異なり、天地のすみまで満ち、古今一貫し、これらを超えて存在するものであり、いかなるものもうち砕くことはできない。 この気は、平常行うことがすべて正しい道に外れないことすなわち常に正道を実践することによって養い、聖賢を学ぼうとする志を一筋に持って、つかの間もこれをいい加減にしないことによって育てるものである。学問の上で大いに忌むべきことは、したり止めたりである。したり止めたりであっては、ついに成就することはない。それゆえ、つかの間もこの志をいい加減にする事がないことを、志を持するというのである。 浩然の気とは、その人の行うところが道義に合致しているところから自然に生じてくるものであり、道義に合っているか省みなければそれは狂暴粗豪の態度にしかならない。 浩然の気は、本来天地の間に充塞(じゅうそく)しているものであって、人がそれを自分の気としているものである。されば、人たるもの、私心を除き去ることができるならば、その気は至大となって、天地の気と同一体になるものである。
●「マールンキヤ小経」(漢訳「箭喩経」。いわゆる十難無記。毒矢の喩え)より マールンキヤの子は、 「世界は常住か無常か」 「世界は有限か無限か」 「霊魂と身体は同一か別異か」 「如来(完全な人格者)は死後に存在するかしないか」 「如来は死後も存在しかつ不存在か、死後に存在せずかつ不存在でもないのか」 (いわゆる十難とされる形而上学的問い)について、深い疑問を持った。そこで、ブッダ(世尊)にこれを問うて、仮に世尊がこれらを立論し説明されないなら、私はこれ以上修行(修学)を続けることができませんので、還俗いたします、と言った。 ブッダは答えた。「マールンキヤの子よ、私はおまえに、私がそれらの問いを立論し説明してやるからわたしのもとで清浄な修行につくようにと、語ったことがあるか。」 マールンキヤの子「いいえ」 ブッダ「マールンキヤの子よ、仮に私がそれらの問いを立論し説明しない間はわたしのもとで修行はしない、と言う者がいるならば、その者は結局修行をする機会なく一生を終わるだろう。」 「仮に弓矢に射られた者があるとしよう。医者が呼ばれた時、仮にその者が、『その矢を射た人はどんな人か、矢を射た弓はどんな弓か、矢の矢柄・かぶら・矢尻はどんなものか、などといったことがわからない間は、自分の身にささった矢を抜き取るまい』、と言ったとすれば、その者の命はそこで終わるだろう。」 「世界の有常・無常、有限・無限、死後の存在・不存在、それらの問いについてどんな見解を取ったところで、修行が成就することはない。修行には役立たない。むしろ、そのような見解を論ずるところには、苦が生じ、苦を免れないであろう。マールンキヤの子よ、世界の有常・無常、有限・無限、死後の存在・不存在などといったことは私は説かない。それらは私が説かないものであるとして心に保持せよ。」 「なにゆえ私がそれらを説かないのか。それらを説くことは、目的にかなわず、修行に役立たず、厭離、離欲、苦の滅尽、心の寂静、優れた智恵、正しい悟り、涅槃(平安の境地)の基礎とならないものだからである」 「私が説くものは、苦についてであり、苦の生起についてであり、苦の滅尽についてであり、苦の滅尽にいたる道についてである。これらは、道理の把握をもたらし、正しい道の実践の基礎となり、厭離、離欲、苦の滅尽、心の寂静、優れた智恵、正しい悟り、涅槃(平安の境地)の基礎となるものだからである。マールンキヤの子よ、それゆえに、私の説かないことは説かないものとして心に保持するがよい。私が説くものは私が説くものとして心に保持するがよい。」 マールンキヤの子は歓喜し、世尊の教えを受け入れた。
●ポール・J・マイヤー 「私の大好きな習慣」 1.世界全体が私によいことをしようとしていると信じる 2.すぐ赦す人になる 3.楽天的である 4.いつも感謝にあふれている 5.人を励ます人になる 6.自発的に行動する 7.与える人になる 8.自分を肯定する心構えを持つ 9.よく笑う。笑いのある人生を送る 10.情熱をもって生きる 11.人生を楽しむ 12.楽しめる趣味を見つける。いつでもどこでもそれを楽しむ 13.助けてあげる人々を探す ●ジョン・マクスウェル 「リーダーシップに不可欠な21の資質」(若干付加) 1.人格 大成功をおさめても、そのことがもたらすストレスに耐えられる人格的基礎を持たない人間は、やがて悲惨な結末を迎える。 2.カリスマ性 「他人に対してできる最も偉大な善行は、自分が持っている富を分かち合うだけでなく、他人が持っている富を本人に発見させることだ」(ベンジャミン・ディズレーリ) 3.不屈の精神 「絶対に屈するな。絶対に、絶対に、屈してはいけない」(ウィンストン・チャーチル) 4.コミュニケーション 5.能力 優秀な人とは、最後までやり通す人である。卓越した高いレベルで仕事をするかどうかは、あなたの意思と選択に常にゆだねられている。 6.勇気 「生きることは誰にとっても容易ではありません。けれども、それがどうしたというのでしょう。人はみな、強い忍耐力と自信を持たなければなりません。私たちは、自分には何らかの才能があり、それを発揮することは、一人ひとりが負っている義務であると信じなければなりません」(マリー・キュリー) 7.洞察力 「人生においては何事も恐れるべきではありません。何事もひたすら理解するよう努めるべきなのです」(マリー・キュリー) 8.集中 どんな業種でも、真剣に仕事に取り組む人、つまりプロフェッショナルは、並みの人よりも準備に費やす時間がはるかに長い。 9.与える心 10.独創性 「成功するためには、失敗を2倍の速度で経験することだ。成功は失敗の向こう側にあるのだから」(トーマス・ワトソン) 11.聞くこと 部下、顧客、競争相手、助言者の四者の話にあなたは定期的にじっくり耳を傾けているだろうか。 12.情熱 自分の魂の中の火が消えたら、火を灯してくれる人々のまわりに行こう。情熱は人から人へと伝染する。情熱を与えてくれる人々とつきあう時間をスケジュールに組み込もう。 13.前向きな姿勢 前向きな姿勢を維持しにくくなったときは、意欲を高める「燃料」を定期的に補給する必要がある。前向きな姿勢にさせてくれる本を読もう。 14.問題解決力 「(アフリカ探検中のリヴィングストンに対し本国から)安全な道は発見できましたか。発見できたのなら応援を派遣します」リヴィングストンは返事した「安全な道が見つかったら助けに来るという人材なら遠慮します。私が必要としているのは、道がまったく見つからないときでも来てくれる人材です」。 15.対人関係能力 「私は、諸君が医療に携わる際には患者一人一人を気遣ってほしいと思っている。病める哀れな人間と向き合っていると、われわれは人間の真の姿を見、その弱さを目の当たりにする。そんなとき諸君は、人間を見下すことのないよう、心を柔軟にして優しい気持ちを常に持ち続けてほしい」(ウイリアム・オスラー) 16.責任感 自分の持っているものすべてを発揮すると、平和な気分になる。質の高さを目標にしよう。そうすれば、責任感はおのずと生まれてくる。 17.心の安定 精神的に安定していなければ、奉仕の精神を発揮することはまず不可能である。 18.自己規律 規律ある生活習慣を自分自身に課すことだ。できないなどと言い訳してはいけない。 19.奉仕の精神 「本当に幸せな人とは、人々に奉仕する方法を探し求めてそれを見つけた人だ」(アルベルト・シュヴァイツァー) 20.学ぶ心 荒牛乗りの達人タフ・ヘデマンは、世界選手権で三度目の優勝を果たした後、祝賀会も開かずに、すぐ練習を一から再開して新しいシーズンに備え、そして言った。「私がその前の週に何を成し遂げていようと、牛は気にかけてくれないからね」 21.ビジョン ビジョンがもたらす恩恵の中で最も貴重なのは、それが磁石のような働きをするということだ。すなわち、人々を引きつけて団結させるのだ。ビジョンが挑戦的であればあるほど、人々はそれを達成するために努力する。
●フランクリン 「13の徳目」(「フランクリン自伝」より) 1.節制 飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。 2.沈黙 自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。 3.規律 物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。 4.決断 なすべきことをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。 5.節約 自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち浪費するなかれ。 6.勤勉 時間を空費するなかれ。つねに何か益あることにしたがうべし。無用の行いはすべて断つべし。 7.誠実 いつわりを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出すこともまたしかるべし。 8.正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。 9.中庸 極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。 10.清潔 身体、衣服、住居に不潔を許すべからず。 11.平静 小事、日常茶飯事、または避け難き出来事に平静を失うなかれ。 12.純潔 性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これにふけりて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、また自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。 13.謙譲 イエスおよびソクラテスに見ならうべし。
●アイゼンハウアー 「笑いについて」 笑いというのは、緊張する気持ちをときほぐしてくれる。失望と心の傷をいやしてくれる。常に目の前に積み上がる厄介な仕事に取り組む意欲を沸き起こしてくれる。 ●クラウゼヴィッツ「戦争論」より抜粋 「知識は能力となっていなければならない」 「古来、卓越した将帥は、博学多識な者からは生まれることが少ない」 「知識という理性を働かすには、その前に勇気の感情を喚起しておかねばならない。危険に際しては、理性よりも感情の方が強く人間を支配するからである。」 「知識を単純化した人を天才という」 「戦争における肉体的労苦の人間に及ぼす影響は甚大で、特にその判断力を鈍らせる。」
●二宮尊徳 「報徳記」より少年時代を要約
二宮家は、金次郎の父利右衛門の代に家産を傾け、田畑の大半を失った。貧窮の極みの末、金次郎14歳の時、父が病死した。あとには母と金次郎と幼い2人の弟が残された。 金次郎の母は困窮した末一度は末の弟(赤子)を親戚に里子に出した。が、その母が夜に泣いている。それをみた金次郎が聞くと、乳が張って痛くて泣いているのだという。金次郎は母に、自分が人一倍働くからと言って説得し、深夜に母を連れて親戚の家に行き、下の弟を連れて帰った。 16歳の時、その母も病死する。すべての家財がつきはてた空っぽの家に、金次郎ら兄弟3人が残された。末の弟は3才。 幼い2人は親戚に引き取られ、金次郎は家に残り、わずかに残った田畑を親戚に協力してもらって耕し養育費を捻出することとなった。ところがその年の田植えが終わった直後、酒匂川が大氾濫を起こす。二宮家の田畑は一瞬で砂野、石河原と化した。一帯が洪水にやられ、二宮家の田畑を復旧する余裕はもはや周囲の親戚にもなかった。田畑は耕作放棄され、金次郎は伯父万兵衛のもとに引き取られた。兄弟の居場所を確保しないといけない金次郎は、万兵衛の家で人一倍働く。 そして夜には寝る間も惜しんで勉学に励んだ。 が、万兵衛から、「家もなく畑もなく人に助けられて命をつないでいる身で、勉強に一晩中油を使うとは恩知らずな、勉学などやめてしまえ」と、どなられる。 金次郎は、「父母を失い、年少の身では独立することもできず、他人の家に養われて日をおくるといっても、文字をならい、学問に心がけなかったら一生文盲の人となって、父祖伝来の家を再興することも難しい」と、自分の力で油代を稼ぐことを考えた。川沿いの荒れ地に菜種を植えて収穫し、灯油を買った。 しかし、それを見た万兵衛には、勉強は無駄だ、夜に勉強するというなら夜も家事を手伝えとどなられる。金次郎は夜も万兵衛のため縄をない筵を織った。夜更けになって家人が寝静まってから灯りを衣類で隠し、勉学をした。 その後、万兵衛の家業の合間に耕作放棄された自家の田畑を独力で復旧していったのをはじめに、耕作方法を工夫し、節倹に励み、やがて万次郎の許しを得て独立し、家の再興のためもとの我が家に帰った。 帰ったと行っても長く放棄されて荒れ果てたあばら屋であったが、金次郎は独りこれを修理し、さらにわずかばかりの田畑で耕作に励んで工夫を重ね収穫を上げ、やがて父祖の田畑を買い戻し、さらに余剰を残し、ついには地主となるまでに至った。 働きづめで家をようやく再興した金次郎が結婚したのは、31歳になった時であった。
●織田信長 「下天は夢か」津本陽などより要約
永禄13年(4月より元亀元年。1570年)は、織田信長にとって、最大の屈辱と試練の年となった。 永禄11年9月に足利義昭を奉じて上洛を果たした信長は、破竹の勢いで畿内の諸勢力を帰服させていった。三好三人衆もほぼ駆逐してからは、畿内で信長に露骨に恭順しない勢力は、石山本願寺くらいとなり、遠方の大名との関係はおおむね良好、朝倉氏だけがあえて恭順を避ける態度を示した。東の武田信玄は不気味だが強固な同盟関係を結ぶ徳川家康が抑えとなっていた。北近江の浅井長政には妹お市が嫁ぎ夫婦仲もむつまじく、信長は家康と並ぶ同盟者として長政を義兄妹として厚く遇した。岐阜と京都を結ぶ信長政権の生命線である近江の支配は磐石だった。 4月20日、信長は、徳川軍と連合し、突如越前朝倉氏の討伐に出発する。家康には降ってわいた一方的な手伝い戦である。浅井氏にとっても寝耳に水で、浅井氏は朝倉氏とも旧縁深く、朝倉を攻撃する際には浅井に連絡するという約束が織田浅井間にはあったが、信長は、もはや浅井氏は織田との同盟を尊重して朝倉を見限るものとたかをくくり、浅井氏に事前に通知もせずに電撃戦を敢行した。信長軍がたちまち越前の西半分に殺到・制圧し、朝倉氏本拠一乗谷の陥落も遠くないと思われた26日、浅井氏は突如朝倉側に旗幟を鮮明にし、信長軍の背後側面から奇襲をかけるのである。浅井が反信長に立った背景には、裏に信長の足を引っ張ろうとする叡山や本願寺からの指嗾があったと言われる。 北近江を強力に支配する長政に背後を攻撃されては、越前に出張っている数万の織田・徳川軍が全軍壊滅の憂き目をみる。あれほど信頼して重んじ、まさか裏切るまいと思った長政。日の出の勢いの信長を捨てて、因循で聞こえる朝倉氏につくなどという長政の行動が誰の目にも不合理であることは明らかだった。信長は怒りに我を忘れかけ、しかしそれ以前に、我が身と織田全軍に迫る絶体絶命の危機に思い至り、まさしく全身総毛立った。もはや撤退しかなかった。信長は、馬廻りだけを10騎ほど連れ、朽木路を駆け抜け京に遁走した。残りの織田軍はおろか、同盟する徳川家康までが越前に取り残され、決死の撤退戦をくぐり抜けてかろうじて京に生還したのである。信長上洛以来はじめてと言っていい、てひどい負け戦であった。 6月、怒りさめやらぬ信長は、徳川との連合軍で、近江姉川で、浅井・朝倉軍と激突する。姉川の戦いである。織田・徳川軍の勝利と言われる戦だが、実態は必ずしもそうでもない。織田軍は、後がないとばかりに決死の覚悟で突撃する浅井軍の正面の猛攻を支えきれず、十三段備えの十一段までが破られ、壊乱の危機に直面する。戦も半ば、徳川家康が榊原康政を別動隊として対峙する朝倉軍の側面から突撃させ、手伝い戦の朝倉軍が戦意無く撤退。ようやく浅井軍も敗走した。しかし織田軍には追撃の余力も残っていなかった。織田軍は辛勝するも、浅井の鬼気迫る精強さも証明され、浅井氏の本拠小谷城攻略はしばらく見送られることになる。 7月から8月、三好三人衆が雑賀衆と同盟して摂津に展開。伊丹城を攻撃し、野田福島に布陣。9月、信長は三好三人衆に対抗して摂津で対陣する。その三好三人衆を攻撃する信長軍に、石山本願寺が突如攻撃を仕掛けた。織田軍は石山本願寺の総攻撃を決断。しかしながら、要害に立てこもる雑賀鉄砲衆と身命を惜しまぬ膨大な一向衆徒の反撃に遭い、織田軍は数日で数千の損害を出すほどの手ひどい敗北を喫する。この織田軍の大敗北が、以後10年におよび泥沼のごとく信長を悩ませた、名高い石山合戦の始まりである。予想以上の抵抗と損害に織田軍には全く攻め手がなく、戦線はたちまち膠着してしまう。 9月18日、呼応するように、朝倉・浅井軍3万が、湖北に進駐。坂本宇佐山城を包囲する。守将は森可成。19日、京都にいた信長の弟九郎信治が救援に駆けつけ入城するがそのまま攻囲されてしまう。浅井・朝倉の猛攻の前に、可成、信治が頑強に抵抗するも同日立て続けに討死。残兵がかろうじて本丸だけを死守する。浅井・朝倉は、20日には大津・山科に殺到し放火略奪、23日には東山に進出する。24日に大坂から急遽舞い戻った織田軍と対峙するや、浅井・朝倉軍は正面衝突を避け、叡山に登って持久戦を挑んだ。時を同じくして、各地で本願寺が末寺に呼びかけた一向一揆が一斉に蜂起する。 尾張から畿内に広大な分国を有する信長の軍の動員力は、当時総兵力10万を数えた。だが叡山という高所に拠る3万の大軍を撃滅するには、計り知れない大軍を要する。一方で、石山本願寺への攻撃は続行中、京や分国支配に残した軍は各地で蜂起する一揆の鎮圧に奔走させられ分散する。本願寺の一揆勢への指嗾・支援は強固で、一揆勢は命を捨てて抵抗するので、鎮圧側の損害も多く、一向に収拾がつかない。 10月、織田軍の主力が叡山山麓と石山本願寺に釘付けにされるうちに、山城西部西岡で土一揆が勃発。さらに三好三人衆の勢力数千が阿波から河内に進出。浅井・朝倉は夜な夜な京に潜入して放火を繰り返す。南近江では佐々木承禎が蜂起。そんな10月2日、徳川家康が北近江に来援。なんとこの年3度目の手伝い戦で、領国を留守に、三河から近江まで来援にきているのである。後々まで信長・秀吉が家康に対し寄せた深い信頼の念は、この苦難の年に家康が信長に示した、友誼というも月並みな、同盟者に対する不惜身命の献身によるところ大であろう。北近江の抑えを家康に委ね、木下秀吉がようやく坂本に来援。しかしそれでも叡山に攻め登るにはあまりに兵力不足であった。 信長は、叡山に立てこもってすきあらば京に殺到しようとする気配を見せる浅井・朝倉と兵力不足のまま対峙し、主力を動かすこともできず、その間に領国全体で旧勢力や一向一揆が蜂起する。有効に鎮圧できないとなると威権が弱まり、ますます反抗勢力の蜂起を招く。 わずか半年前には隙間無く制圧したかにみえた畿内の信長の支配は、坂道を転がり落ちるように弱体化し、まさに累卵、ほとんど崩壊の危機に瀕したのである。 さる永禄11年、信長は畿内に進出した際、叡山の近江の所領を没収し、叡山はこれを恨みとして朝廷にその返還をうったえていた。朝倉氏は叡山にとって大旦那であった。その結果が、この事態である。信長は焦りにかられ、叡山に、没収した所領を返還するからせめて中立に立って浅井・朝倉を山から出すように要請する。しかし叡山はこれを無視。信長は屈辱と、焦りの中で、叡山を囲んで手をこまねいた。 事態は急速に、止めどもなく悪化していく。10月22日、最悪の知らせが届く。尾張と国境を挟んだ伊勢長島で一向一揆が大規模に蜂起。尾張の小城、小名木城を大軍で囲んだのである。守将は信長の五弟信興。援軍を送るべき伊勢桑名城を守る滝川一益までが、城を一向衆徒に包囲され、出陣もままならない。信興は絶体絶命の危機に瀕した。わずか1月まえに弟信治を失った信長は、今また大事な弟を失おうとしていた。なんとしても援軍を送りたいが、長島の一向一揆もまた大軍。その精強さは石山で思い知らされた。今叡山包囲の手勢を大きく割いて尾張に送り、目の前の浅井朝倉を抑え切れなくなれば、京も近畿の領国も反対勢力が席捲し、信長の支配も全面崩壊する恐れが、もはや目の前の現実となりつつあった。信長は、己への歯がゆさと心痛に身もだえしながら、許せ信興と心で叫ぶ。天下布武を標榜し、天下統一と既得権益の破壊に向かって容赦なく進む信長に、割拠する旧勢力が己の既得権益を死守しようと足を引っ張りにかかる。再び支配者不在の混乱と破壊の中に畿内を追いやろうとしている。みごとなまでに機を一にした反抗勢力の蜂起だった。懸命に一刻も早い打開策を探るしかない。焦燥と煩悶の中で、誇り高い信長が選択した方法、それは、足利義昭に膝を屈し、反抗勢力との和睦の調停を禁裏に依頼することだった。もはや和睦しかなかった。それに今は義昭そして朝廷を利用するしかない。信長は、義昭や朝廷の政治的立場を強めることは避け、むしろ経済的支援により恩を着せ続けてきた。それゆえ今はなから守る気もない詐術的な和睦のために頭を屈するべきではない。しかし、浅井・朝倉を叡山から引きずりおろし、苦況を脱し、なにより信興や崩壊寸前の分国を救うためには、もはや信長にはそれ以外手だてはなかった。怒りと憎悪、焦燥と屈辱に煮えたぎりながら、忍従の姿勢を保ち、義昭に頭を屈したのである。信長が中央政権崩壊の瀬戸際に立たされて見せたものは、恐ろしいまでの自制心と、忍耐力であったのである。 11月12日、三好三人衆と和睦。13日、本願寺顕如と和睦。しかしその間の11月21日、長島の一向一揆に攻囲されていた尾張小名木城は陥落、信興は討死する。間にあわなかったのである。27日、湖西の堅田の浅井朝倉勢に坂井右近が海上から上陸し、突撃して全滅。28日、ようやく朝倉氏と和睦。12月12日、叡山と和睦。叡山には、所領の返還と、浅井朝倉への加勢を咎めないという誓紙を差し出した。叡山への無条件降伏である。 信長は、わずか2ヶ月であっという間に2人の弟を失い政権崩壊の寸前まで追い込まれた。その忍従の中で、信長の心中には、守旧勢力、つまりは、浅井・朝倉、そして叡山、石山本願寺に対する、底知れぬ憎悪が醸成された。そこには、信長の、鋭敏な自衛本能、深刻な恐怖と、ぬぐいがたい屈辱、そして、己の利益のためには民の利益など考えず命すら使い捨てに利用し天下人が出ればその足を引っ張って天下静謐のあえて逆を行かんとする旧勢力に対する、尋常ならざる強い嫌悪感があった。いかように思考しても、いや思考するほどに、確実に、抑えがたい憎悪の念が信長の心をさいなんでいったのである。 信長が一向一揆の衆徒に対する残虐な処刑をおこなうようになるのは、翌年の元亀2年ころからである。 信長は、浅井・朝倉が叡山を降りて本国に帰還し、危機を乗り切ったと見るや、浅井・朝倉との和解をたちまち反古にし、翌元亀2年正月から浅井領への交通を遮断、攻略を開始し、2月には佐和山城を調略によって奪取した。将軍義昭が仲介した勅命による講和を一瞬で破毀したことで、はなはだ威信を貶められた義昭は憤慨し、以後義昭と信長の関係は急速に悪化し、反対勢力を陰で煽動する側に回っていく。 そんなことも構わず、元亀2年9月12日、信長は、軍をあげて叡山を包囲して焼き討ちし、堂塔全てを破却し焼き尽くし、僧俗問わず殺戮する。叡山焼討である。 ●柿本人麿 「妻みまかりし後にいさちかなしびて作れる歌」 万葉集巻二 天(あま)飛ぶや 軽(かる)の路は 吾妹子(わぎもこ)が里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど 止まずいかば 人目を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢わむと 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 岩垣淵(いわかきふち)の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れゆくが如(ごと) 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の 靡きし妹(いも)は 黄葉(もみじば)の 過ぎて去にきと 玉梓(たまずさ)の 使(つかひ)の言えば 梓弓(あずさゆみ) 音に聞きて 言わむ術(すべ) せむ術知らに 音のみを 聞きてあり得ねば わが恋ふる 千重(ちえ)も一重(ひとえ)も慰むる 心もありやと 吾妹子が 止まず出で見し 軽の市に わが立ち聞けば 玉襷 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉桙(たまほこ)の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば 術をなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる topへ→ ホームへ→